大寒も過ぎてようやく降った初雪は、東京の子どもたちの心を浮き立たせた。折から土曜日、学習塾を経営しているボクとなおみ先生は英会話の授業が終わった中2の女の子と受験科の小学生をあおって暫く教室の前の歩道で雪合戦に興じた。通りすぎる人の中には、ほほえましそうに足を止める人もあるし、露骨に迷惑そうな視線を投げる人もある。さまざまな人の暮らす都会の光景だ。
子どもの服が濡れ出すちょっと前に、ボクはわざと子どもたちの集中攻撃を受けて降参し、それを潮になおみ先生が
「終わりよー。中に入って髪の毛拭きなさーい」
と終戦を宣言して、授業を再開した。それぞれのクラスが終わって、外に出ると中2の女の子3人が、まだ降りしきる雪の中で雪だるまを作っていた。
素手である。R菜の手は手首まで腫れあがっている。タオルで頬被りしたY美が横殴りの雪の中でにっと笑う。
「なんだ。雪だるまなら軍手貸したのに」
「いいの。ねえ、キャンディ二つちょうだい。」
暫くして彼女たちにひっぱられて見に出ると、入り口のポーチの下に四つのだるまが並んで、いちばん大きなだるまにはボクの名前が書いてあった。次のだるまは茶色いキャンディの目がくりっととかわいいなおみ先生だるま、小さな二つはアルバイトの子たちだった。ふと見ると、父親の車が迎えに来るのを待っていた小4の男の子も手伝っていた。
「いちばん小さいのはボクが作ったんだよ」
「ありがとう。さあ、風邪をひかないように中で温まって」
すぐに暗くなり、雪だるまはライトに白く浮かんで仲良くにこにこ笑っていた。しかし彼等の命は一時間ほどではかなく消えることになる。
夜になって中3の受験生たちが集まり始めた。お調子ものサッカー部のSが珍しく一番乗りでやってきた。彼を含めた数人が私立高校第一志望で、この翌日が入試本番の日である。だから、この日は軽く調整程度の授業に、手作りのお守りとリップスティックやカイロの入った合格セットを渡して終わる予定だった。
「雪で遊ばなかったの?」
「え?いいの?」
「もちろんよ」
なおみ先生のことばが終わらないうちにSは外に飛び出して、次々とやってくる友だちに雪をぶつけては、逆襲を受けている。授業が始まって暫くしたとき、表から「あっ、雪だるまだ。」という数人の小学生の声を聞いた。そしてどすっという鈍い音が続いた。
休み時間に見に行くと、悪い予感は的中して、雪だるまの頭はみな地面に落ちて割れている。ボクは強いショックを覚えた。誰かの作った雪だるまを蹴って破壊する行為は、少なくともボクのモラルセンスでは測り知れない凶悪水準だ。それをたぶん普通の小学生が通りすがりに行った事実に心が追いつかない。
しかし、さらに恐ろしい光景はそのあとに待っていた。
たふん最初は直そうとしていたのだろう。SやA穂が散らばった頭を集めて、胴の上に載せようとしていた。ところが水っぽい東京の雪は、一度固まった破片を再びまとめようとしてもなかなかつかない。そこで一つの胴をもう一方の胴の上に載せて頭にしようとしたらしい。うまく載らずにぐらりと雪玉が崩れたところでSが癇癪を起こした。近くにあったプラスチックのバットをだるまに振り下ろす。一度そうなると止まらない。回りにいた男女数人が歓声をあげて足蹴にしたので、あっと言う間に雪だるまは影も形もない山型に踏み固められてしまった。
入試直前のストレスもあっただろう。悪ノリもしたのだろう。だが、その光景の恐ろしさにボクは身震いした。振り向くと、授業が長引いてその場にいなかったはずのなおみ先生がカウンター越しにそれを目撃してしまった。今にも泣きそうに凍りついたまま立ちすくんでいる。ボクはどうしたらよいのか暫時悩み抜いた。彼らは明日、入試だ。気分を落ち込ませたくない。しかし、このままにしては、もうこの仕事を続けられない気がして、教室に行き、眼光だけで破壊に加わった4人を集めた。先生がこの目をしたときの恐ろしさが身にしみている彼らはもう血の気がひいている。
「誰かの作った雪だるまを寄ってたかって壊すのはそんなに楽しいのか?」
ボクは静かに話し出す。A穂はしゅんとうつむく。叱られ慣れているSとTはひたすら神妙な顔だ。
「…いつも誰かの気持ちになって考えようって話してたじゃないか。」
ボクはゆっくりと彼らの後輩があの雪だるまを作ったようすを話した。泣き虫のM果はもうすすり泣き始めている。
やばい。盛り上げるはずのテスト前日、ムードは最低になってしまった。いつもなら、このへんで、どっかーんと怒鳴ってから、「よーし!前よりでっかいだるま作るぞ!行けー!」と、叫べはめでたしめでたしで終わるところだ。すでにそれを予想しているのか、当事者でない子たちやなおみ先生までが、雷に備えて身をすくめている。しかし外は吹雪。いくらなんでも試験前日の受験生に雪だるまを作らせるわけにもいかない。
子どもたちに悪気のなかったことがわかったボクは、深呼吸して
「以上、席に戻って」
と指示した。緊迫していた空気がどっとほぐれたが、叱られた子たちは罪の意識から元気がない。この雰囲気を何とかするには、どうしても雪だるまの再建が必要だ。
「15分、スタート!」
予定になかった計算プリントを自分のクラスに配ったボクは、ありったけの衣類を着込み、防寒コートのフードをかぶってひとり雪の中に出た。
とほほ。何でこうなるんだろう。…ひとりごちながら、濡れた軍手を踏み固められた雪につっこむと、冷たさが脳天をついた。雪はますます強くなり、ボク自身が雪だるま状態。家路を急ぐ通行人がみな訝しげに視線を投げてくる。ようやく胴の玉が形になったところでしゃがみこんであえいでいると、フードでせまくなっている視界の死角からいきなり雪を載せた白い手が現れた。顔を上げるとA穂の笑顔が至近距離にあった。
「先生ごめんなさい」
声のした方を見ると、チキンTがへらへらしながら雪を掻き集めている。
「やっぱ、新しい雪の方が柔らかくてよくない?」
SとM果は髪の毛を真っ白にして、植え込みや車に積もった雪を運んでくる。
「ばっかやろー!風邪ひいたらどうすんだよ!中に戻って軍手…」
…借りてこいと怒鳴りながら振り返ると、軍手を持ったなおみ先生が立っていた。
こういう金八先生みたいな展開は苦手だ。ボクは怒った顔のまま、子どもたちの運ぶ雪でだるまの頭を固めた。すぐにいびつな頭のお坊さんのようなだるまが完成した。
「部屋に戻れー!」
なおみ先生がくんでおいた熱い湯にしびれた手を争って浸し、タオルでM果とA穂の頭をごしごし拭いた。部屋にいた子たちがくすくすと笑う。
雪だるま再建組の4人は風邪をひくこともなく翌日の試験に出掛けて全員が合格した。
「先生!受かったー!!」
と、A穂などは狂ったような声で携帯の向こうから叫んでいた。
休みが明けて出勤すると、坊さんだるまはビルの管理人の手で、再びばらばらに壊され、溶けやすいように日当たりのよい歩道に撒かれていた。空は一昨日の雪が嘘のように真っ青に晴れていた。