サーブやスパイクを受けることをバレーボールの専門用語ではカットと言うそうだ。それを知ったのはハルカがスポーツ推薦で名門都立高校を受験したときのことだっだ。
「もう一本お願いします!」
実技テストで受験生に与えられた5球のうち一度もカットを上げられなかったハルカは、それでも立ち上がってそう叫んだのだ。早いものであの涙の合格からもう2年余りが経ち、3年生になったハルカから久しぶりにメールが来た。
「なおみ先生、関東大会に出場が決まりました。」
よっぽどうれしいことなのだろう、文面にハートやら顔文字やらが踊っている。
「応援に行くね。」
なおみ先生が返信した。勝ち抜かない限り試合は土曜日の午前中に終わる。
「でも、試合会場は千葉県だし、出られるか分からないからムリしないでください。」
中学ではキャプテンで不動のエースだったハルカでもレフトの控えなのである。それくらい強いチームでなければ関東大会に出場することはできないのだろう。もっともボクたちにとってはエースでもベンチでもあまり関係ない。最後の試合を戦うハルカの姿を目に焼き付けておきたいだけだ。メールで誘ってみると、ミサキの返信は明快だった。
「ミサキ、ぜんぜん、行くし〜」
中学時代のハルカの親友で、バレー部では副キャプテンだった。相変わらず一人称は「ミサキ」だったが、土曜日の早朝、待ち合わせ場所に現れたミサキが単語帳を持っていたのには驚いた。車に乗ってもタローと抱き合いながら、単語帳をめくっている。ボクとなおみ先生はその姿に揃って目を細めた。
「やっぱりウチの子は違うね。」
卒業して何年経っても「ウチの子」である。その頃、もう一人のウチの子ハルカは関東大会初戦の先発に選ばれていた。強いプレッシャーのかかる緒戦にチーム一番のムードメーカーを起用して弾みをつけようとするのは監督として当然の采配であろう。作戦は適中し、格上の相手に対し、互角以上の流れを作る大活躍をして、ハルカは退いた。
ところが「ウチの子応援団一行」はそのプレーを見ることができなかった。試合会場に向かう東京湾アクアラインが事故で麻痺してしまったのだ。なんとか第一セットの後半には駆け込んだが、ハルカはもう交代したあとだった。
バックラインの外側に白線で描かれた正方形の枠があって、控えの選手は、みなそのスペースに立っている。その矩形の最もコート寄りの隅がハルカの定位置だった。ジャンプし、拍手し、叫び、ローテーションで下がって来た選手をハイタッチで迎える。控えでも元気だけは会場一番である。
「あれがウチの子ですよ。」
ボクは自慢げにつぶやきながら、その姿をカメラに収めつづけた。300mm×1.4のファインダーの中でハルカの汗がきらきら光っていた。試合はそのまま、一方的な攻勢が続き、とうとうストレートで強豪を降してしまった。
え?…と、いうことはまさかの2回戦進出?
トーナメント表を見ると、試合開始は12時過ぎ、相手は市立船橋高校である。関東地方以外の人にはわかりにくいと思うが、市立船橋と言えばイチリツフナバシなのである。サッカー、野球、バレーボール、どんなスポーツでも抜きん出ている。要するに雲の上の強豪である。戦って散る相手として、これ以上に素晴らしい敵はない。
「教室の方はマナに電話して臨時出勤を頼もう。」
イチフナが相手ではハルカが出場する可能性はとても低い。けれど、たとえポジションは正方形の角でもハルカのイチフナ戦を見て行きたい。授業には間に合わなくなるが、マナなら一人でも何とかするだろう。そうこうしている観客席にいきなりハルカが現れた。
「shu先生、ありがと。ものすごい存在感だよ。すぐにわかった。」
ありゃりゃ。ボクとしては気配を消して、カメラマンに徹してるはずだったのに。
「なおみ先生もやばいの。もう、かわいいオーラが出まくり。」
「うふふん」
「ねえねえ、みさきは?」
「ふつう。あ、来てるなって感じ」
「ぶう」
「うそうそ、ありがとー」
「ハルカ、2回戦も出るか?」
「う、うん。たぶん…」
ハルカは現れたときと同じように、にぎやかに去って行った。
タローとは試合のあとに、海で遊ばせてやると約束をしていた。
すまんなタロー、予定変更だ。この駐車場で遊んでくれ。
臨時駐車場に開放されている草原を爽やかな初夏の風が渡ってゆく。体育館に戻ってくると、周辺はイチフナ応援団のターコイズブルーに占拠されていた。一回戦をシードされているイチフナはこれが関東大会緒戦であるが応援団にも気の緩みは感じられない。獅子搏兎の気概である。
兎チームの先発はレギュラーで固められ、ハルカはやはり正方形の中だった。
しかしベストメンバーでも歯が立たない。そもそも全国レベルのチームはディフェンス力が違う。移動攻撃やバックアタックなど味方のサインプレーはことごとく読み切られ、正確なブロックやスパイクとなって返ってくる。そうなると攻撃に迷いが出はじめて、チームはメンタル面から崩れてゆく。そこまで追い込んだところにイチフナ自慢の攻撃陣が襲い掛かるのだ。
それでも第一セットの間は健闘した方らしい。
「イチフナ相手に二桁得点してるよ。」
「嘘だろ」
様子を見に来た他チームのコーチの会話が聞こえてきた。だが、それも第二セットになると一方的な展開になった。集中力が限界に来たのか、オロオロする兎たちの陣に次々と獅子のスパイクが突き刺さる。イチフナの得点はあっと言う間に20点を越えた。
まわりでは次の試合の応援団が旗やメガホンの準備を始めた。なすすべもなく見ていた監督が正方形から出場機会の全くなかった1、2年生をベンチに呼び寄せた。次期を担う選手たちに大きな舞台を体験させるためだ。緊張した面持ちで彼女たちが次々とコートに入ってゆく。
「シュウ先生、そろそろ。」
ファインダーの中のハルカに意識を集中していたボクの耳元でなおみ先生が囁いた。我に返って応援席を見るとミサキも立ち上がろうとしているのが見えた。第二セットに入ったところから、ボクは撮影のために二人と離れ、反対側のイチフナ応援席の中にいたのだ。
新人の起用は事実上の敗北宣言である。ボクはなおみ先生の意図に納得して5Dの電源を落とし、応援席に向かって歩き出した。重いボクのカメラバッグをミサキが担ごうとしていたからだ。
ちょうどセンターラインを越えたあたりで、ふとコートに視線を落とした。正方形にハルカの姿がなかった。探す視界の端にミサキとなおみ先生がコートに向かって叫んでいるのが映った。
ベンチの椅子にハルカを見つけた。高校バレーではベンチに選手はいない。ただ、交代で投入される選手がコーチの指示を受けるときだけ呼ばれて座るのだ。
監督の言葉に真剣に頷くハルカの目が鋭く光った。
矢のようなスパイクが決まり、イチフナに23点目が入ったところで、チームメイトのハイタッチに迎えられてついにハルカがコートに躍り込んだ。
この一見無意味な交代の意味が、ハルカを知る人にだけはよく分かる。コーチもチームメイトも後輩も応援席も誰もが納得する采配である。後衛に回る選手と交代したので、ハルカの役割は苦手なカットだ。交代した選手を狙うというバレーのセオリー通りにイチフナの強烈なドライブサーブがハルカを襲う。
上げた!ハルカがカットした。
味方がそれを久しぶりの得点に繋げたようだ。選手が走り回ってハイタッチしているのでそれとわかった。
…と、言うのも、肝心なところなのに、ボクには試合展開がよく分からなくなっていた。
なぜか視界がグニャグニャと激しく揺れてよく見えなかったからだ。ファインダーの焦点も合っているのか分からない。1/500秒の速度優先モードでシャッターボタンを押し続けた。波打際の海のように揺れる視界の中で、今度は矢のようなスパイクがハルカの足元を襲った。
上げろー!!ハルカ!
上がった。味方のスパイクが動揺する相手選手のミスを誘って連続得点。チームも応援席もお祭り騒ぎになった。
が、強敵はそれ以上の流れを許さない。敵のエースのスパイクがコートに突き刺ささり、ついにイチフナのマッチポイントが来た。
トスが上がり、ターコイズブルーのエースが空中に飛んだ。ハルカの隣の選手が狙われた。かろうじてカットしたが、ボールはバックラインの遥か後方に力なく上がった。
そのボールに飛び込んでいく選手がいた。
ハルカは相変わらず物理が苦手のようだ。こないだも代わりに運動方程式を解いてやったじゃないか。そんなボールに飛び込んでも力学的に届くはずないよ…。
ハルカの伸ばした手のずっと先でボールが弾みホイッスルがなった。
ハルカの高校バレーが終わった。
応援の一行3人は、無言のまま体育館を出ると、また無言のままタローを連れて駐車場に走った。誰もが最後までボールに飛び込んだハルカの姿を見て胸がいっぱいだった。一言でも発すれば、込み上げる嗚咽を堪えられそうになかったからだ。