教室日記 >>>誤算
2009/2

MSとHKは客観的にはかなりの美少女だ。お別れ会で子どもたちにあげる写真を整理していてふと思った。

「そうよ。今頃気づいたの?」

となおみ先生が言う。当たり前である。小学生から預かっている子たちの美醜などにいちいち目がいくはずがない。ただ、もう、この二人、心が底抜けに明るい。二人でじゃれあってはコロコロとよく笑うし、ボクと三人で話していると、ほとんど漫才である。ノートに赤ペンで描くナゾーの絵をせがんだのも、なおみ先生は馬車に乗ってると言いはるのもこの二人だ。

それが揃ってピンチ組になっていた。ピンチ組というのは、現在の得点力と志望校のレベル差が大きいために、無制限補習の指定をした受験生のことである。何とか実力を底上げするために、毎日、学校から直接教室に来させて補習をしていた。この二人と新撰組から二人…よりによって特別なついている子たちばかりが今年のピンチ組になっていた。

日曜補習でなおみ先生が授業している間に、ボクは天神さまにお参りに行く。苦しいときの何とやらではないが、参道で評判のくずもちを買って帰り、子どもたちにふるまうのが恒例になっている。肉まんやドーナツと違って、切り分けたり蜜をかけたりする手間がある。こんなとき、この学年でアシスタントをするnanaは、私立第一志望で、すでに合格を決め、日曜補習には呼ばれていない。ボクはただ、

「MS!HK!」

と呼んだだけだ。言うが早いか、たちまち二人は包丁や紙皿を持って、なおみ先生を手伝っている。二人は翌日に、志望校の推薦入試の発表を控えていた。甲斐甲斐しく立ち働く姿を見ていたら、何か奇跡でも起こるのではないかという予感がした。

◆MSの誤算◆

「ふわふわで、手や顔の輪郭がはっきりしない。」

ボクはよくそう言ってMSをからかう。

「MS、ちゃんと輪郭あるもん!」

MSは中3になっても一人称がMSなのだ。雰囲気がふんわりころころしていて、彼女と話しているだけで誰でも心が和む。成績はほぼオール5である。それでも志望するS高に推薦で通るには足りない。面接を特訓し、提出する自己アピール書をいっしょに推敲したが、「将来の夢」という作文の草稿だけはなぜか見せたがらない。ボクが不安を隠しきれずにいると、

「見る?」

と言って気まずそうに手渡した。将来は学校の先生になりたくて、理由の中に塾ですばらしい先生に出会ったからだとある。先生になったら、外国語を勉強し、学校に行けない子たちがいる国に行って教えるのが夢だと結ばれていた。

「幸運にも日本に生まれたキミたちは、そんなに一生懸命勉強しなくても生きていけるだろう。だけど、地球上には今も飢えて死んでいく子どもや空から降ってくる爆弾に逃げ惑っている子どもたちが大勢いる。彼らは自分で勉強して、何とかすることができない。ボクたち豊かな国が自分たちの利益ばかり考えずに、協力して手をさしのべるしかないのだ。彼らを助けられるよい社会、よい国にするためにはみんなが、人の立場になって考えられる教養を身につけなければだめだ。勉強しなければならない理由が見つからないなら、今、飢えて死んでゆくアフリカの子ども、殺されていく中東の子どもたちのために勉強しようではないか。」

…ボクはときどきこう言って子どもたちを励ますことがある。MSの夢は、たぶんこれに対する彼女なりの答えなのだろう。あるいは中学校の先生の中にも、同じようなメッセージを発された方がいらっしゃるのかもしれない。

「思いっきり面接で夢をアピールして来い!」

そう言って送り出した推薦入試から、MSがしょんぼりと帰ってきた。グループ面接で隣がオール5の子だったという。フランス語と華道を習っていてテニス部のキャプテンだとアピールしまくっていたそうだ。

「MSの話なんかフーンって流されて、あ、もういいわよ的な感じでぇー。それに、もう一人控え目で感じのいい子がいて、MSから見ても超印象がいいの。」

もう推薦は絶望だと言うが、明るさは失わない。

「MSはまだ首がすわってないからなあ。」
「MS、赤ん坊じゃないし!」

と軽口も交わす。そうか。予想以上に推薦応募者の内申がよかったのか。一般受験に回れば今度は偏差値自慢が集まってくる。MSは内申こそ抜群だが、まだ精神年令が幼いので、どうしても国語の読解が主観的になる。レベルの高いS高の問題には歯が立たないだろう。数学も難問には力負けしている。2年前のM奈に比べても、国語の得点力でかなり劣る。

その夜、ボクはMSの志望校を変える決断をした。志望校判定に情は禁物だ。これだけの成績と実力のある子を判断ミスで落とすわけにはいかない。なおみ先生に伝え、推薦入試の発表のあと、すぐに本人と話すことに決めた。たぶん彼女はボクたちの説得には素直に応じるだろう。

そして、くず餅の翌日、発表の日が来た。子どもたちからはなおみ先生の携帯に報告が入ることになっている。午前10時過ぎ、ちょうどなおみ先生がシャンプーしているところに一本目の電話が鳴った。

「もしもし、オレだ。」
「先生!番号があるの!あったのー!」
「落ち着け。誰だよ。」

聞かずともそのふんわり声の主は分かる。

…なるほど。グループ面接の時点ですでに合格が決まっていたのは、オール5の才媛でも印象抜群少女でもなくMSの方だったのだ。だから面接官からの質問は少なかった。

ms

「10分そこで待っててくれ。」

ボクらは家を飛び出した。S高の校門を入ると、やはりMSの待っている場所は、そこだけがふんわりと明るく、すぐにわかった。


◆HKの誤算◆

12月、内申点が思ったほど良くなかったHKは、中学校の三者面談で私立高校の単願推薦をもらってきた。

「先生、どう思う?」
「HKが気に入るかどうかだよ。とにかく行って見学しておいで。」
「うん。」

高校のHPからプリントアウトした地図を渡すと、HKはおじいさんの運転する車に乗って手を振った。おじいさんが運転席から会釈する。

ボクとなおみ先生はこのおじいさんのファンだった。まさに江戸下町かたぎで気風も人当たりもそれを絵に描いたような人だ。お母さんは、HKのお兄ちゃんが入会したとき、突然、

「S(お兄ちゃんの名前)!あんたが選んだ先生はどの人だ!」

と、言いながらずんずんと授業中の教室に入ってきて、あっけにとられているボクの目をじっと見てから

「よろしくお願いします。」

と言って、颯爽と帰って以来、一度も顔を出したことがない。兄のときもHKになってからも、面談にはいつもおじいさんが菓子折りを持って現れた。

「いい学校だった。」

と、報告に来たHKの目に、わずかな陰りをみつけてボクは言った。それはきっと、ボク以外、誰にもわからない陰りだったろう。

「単願すれば、J高校を受験することはできなくなるけど、それでいいんだな。オレたちはもちろんHKが気に入っているなら、こんなうれしいことはないけれど。」

バレーボールが好きなHKはずっと運動部が盛んな都立J高校に行きたがっていた。

「うん、考えてみる。」

翌日、HKは単願を断り、代わりに別な私立高校の併願推薦をもらって来た。

「先生、あたしやっぱりJ高受けたいからがんばる。」

ところが、暮れになってHKは勉強の調子を落とした。模擬試験や過去問をやっても、どの教科もJ高に及ばない。得意の英語でもミスを重ねた。プレッシャーが彼女の心にのしかかったのだ。

冬期講習を終えても、HKの調子は戻らなかった。あせりから固くなり、自信もなくして集中力を欠く。それでも笑顔は絶やさない。学校が終われば、まっすぐに教室に来て黙々と与えられたプリントに向かっていた。

ある夜、授業が終わってピンチ組の質問を受けているところにWがやってきた。

「シュウ先生先生、親がやっぱりK高受けろって。」

へらへらと言うから、雷が炸裂した。

「ふっざけんな!ばっかやろー!!誰が受験すんだよ!お前自身はどうしたいんだ!」

不意をつかれたタローが飛び上がり、ちょうど開いていたドアから一目散に表まで逃げ出して、あやうく車道に飛び出すところをnanaが抱き止めた。

「はい。すみません。」

青ざめてうつむくWの気持ちも分からないではない。彼は学力に比べて内申点が異常に悪い。いわゆるKYな発言が多く、そのために授業態度不良と判定されるのだ。彼に悪気のないことは、教科だけを担当している教師には分からないだろう。理科が好きで、一度定期試験で連続100点を取ったが評価は4だった。年末のテストでも得点はMSを上回っているのに、内申点は比べものにならないくらいに低い。志望するK高は、計算上受けられないことはないが、500点満点で430点くらい取らないと難しい。少し自棄になるのも無理はないが、なかなか立ち直る気配がなく、宿題やプリントも手につかない。「親が…」と言ってしまったのも、そんな自分の状態をよくわかっているので、ボクにはどうしても言い辛かったからに違いない。が、ずっとボクとなおみ先生が鍛えてきた彼には、ハンデをひっくり返して430点を取る実力がある。要は気持ちなのだ。強い気持ちがないと大逆転は望めない。

「オレも挑戦したいです。」
「それならいい。悔いのないように死ぬ気でやれ。」

Wに気合いを入れるつもりだった。ところが、側にいたHKがまるで自分に言われたように感じたのだろう、ただでさえ大きな瞳をさらに見開いて震えだした。やがて、大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。

「HKも同じだ。言ってることと行動が一致してない!」

HKが泣き崩れ、ピンチ組が揃ってすすり泣き出した。

…本当はWもHKも逆境の中でよくやっている。15才だもの。オレにもう少しの能力があればよかっただけのことだ。

ボクは口の中に血の匂いを感じながら、鬼の形相で黙ったまま、事務室に去った。あ・うんの役割分担がある。泣いている子たちを慰めるのはなおみ先生の役だ。

HKはJ高校にスポーツ推薦を出願していた。内申点から考えて、一般推薦は絶望だと言うと、部活の顧問の先生と相談し、僅かでも可能性のあるスポーツで推薦書を書いてもらっていたのだ。

J高のスポーツ推薦には作文の代わりに実技試験がある。バレーボールの募集枠は2。どこも同じように見える都立高校だが予算の下り方には違いが大きい。体育科のあるTK高は別格として、スポーツの実績が高いJ高とY高には桁違いのスポーツ補助金が下りるので、都内屈指の施設や用具は運動部の子には魅力だ。分けてもY高に比べていわゆる偏差値が高いJ高のスポーツ推薦に応募してくるのは、実力、学力を兼ね備えた各中学のキャプテン級ばかりである。実技試験ではいずれ劣らぬ技を見せたことだろう。HKの順番が来た。

「サービスはうまくいったんだけどカットは全部失敗しちゃった。」

HKが笑ってその様子を報告する。本人は嫌がっているが、笑うと八重歯がかわいい。

「他の子は難しいカットもがんがん上げてたよ。ダメだね、こりゃ。」

ボクのようなアタックNO1世代には分かりづらいが、今、選手たちはレシーブのことをカットと言うらしい。

「もう一本お願いします!」

そうHKは叫んだと言う。受験生たちの冷笑を背に、初めて会った先生にの目を真っ直ぐに見て、力いっぱいそう叫んだのだろう。苦笑いしながら先生が投げてくれたボールに思いっきり飛びついて彼女の試験は終わった。

ボクは目をつぶり、そっぽを向いて気のない風でその話を聞いていた。彼女の勇気を思って涙が出そうだったからだ。もし、生まれ変わって別の人生を歩むとしたら、元気のよい女の子になって、バレーがしたいと思った。が、目を開いて全く別のことを言った。

「バレーで負けても勉強で勝ってやろうぜ。」
「うん!」

HKから奇跡の推薦合格を報告する電話が入ったのは、S高の校門でまさにMSとなおみ先生が抱き合っているときだった。狂喜するなおみ先生から電話を受け取ったMSが話しながら

「もしもし、HK?泣いてるの?」

と電話に聞いている。

「がまんしてたんだけど、なおみ先生先生の声を気いたら…」

こらえきれなくなって、道を歩きながら泣いているらしい。ボクはHKの人間性を、だった数球のボールで見抜いたバレーの先生に、心の中で深々と頭を下げた。HKの内申はJ高推薦のレベルには足りない。バレーで受かったとしか考えられないのだ。

HKとMSはもともとnanaと同じ第二次ニューヨーク候補生だった。ところが中学に入ったとき、バレー部の練習と英会話クラスの時間がぶつかってしまった。二人は迷った末にバレーを選んだ。ボクたちはバレーに二人を取られたような思いで、それでも、猛練習でボロボロになりながら本科に通ってくる二人を懸命にサポートしてきた。そのバレーにピンチを救われたことになる。

◆カルスト組◆

二人に起こった大誤算は、ボクの仕事上は手放しには喜べない。何しろ正確な合否予測はボクの重大任務だ。名誉のために書いておくと、こんな誤算は2年に1件あるかないかだ。いい方に外れるとは限らないから、そんなに起こってもらっては困る。他の子の結果は予想通りだった。

翌日、MSとHKそれに順当に推薦合格したSを昼過ぎに呼んだ。なおみ先生が買ってきたドーナツでお祝いしたあと、3人には、もう今夜の授業からお別れ会の日まで授業に出席しないように言った。もちろん保護者には、すでに引き落とされている今月分の授業料を返還する。商売で考えたら、別クラスにして、高校準備のテキストでもやらせればいいのだろうが、ボクらにその才覚はない。ただ、これから一般入試に向かって追い込みをする子たちの環境だけを考えている。どんなに言い聞かせても、すでに合格を決めた子たちの持つ雰囲気は受験生たちのストレスとなる。ボクたちも10の力があるなら10全部を残った子たちに使いたいのだ。

私立と都立の推薦合格者が抜けて、クラスは8人になった。ムードメーカーだったMSとHKの不在は人数の減少以上の寂しさをもたらす。ボクは簡単に推薦入試の結果を報告した後、高杉晋作が秋吉台で苦戦する奇兵隊総督の山県狂介に送ったと言われる手紙の話をした。友と成功の享楽をともにすることはできない。逆境の中で戦いをともにできるのが真の友だ。…という趣旨だ。

「オレとなおみ先生先生は合格した子と喜びを分かち合うのは苦手だ。だからMSたちには遠慮してもらった。最後までお前たちと戦い抜くぞ。今日からこのクラスをカルスト組と名付ける!!」

気圧されたようにK太がWがうなずく。ボクたちと受験生の戦いは続く。

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