2009/5
「シュウ先生先生、ナゾー描いて」
と言って、この春に卒業したMSとHKがやって来た。ボクはとても嬉しかったが沽券にかかわるので顔には出さない。
彼女たちが中学生のとき、あまりに基本的な計算ミスを見つけて、「ありえないナゾのミス」と言いながら、その子のノートにナゾーの絵を描いた。
ところが
「あ、いいな。わたしにも描いてー!」
「ずるい、あたしもー!!」
というノリで流行してしまった。お決まりというわけではない。エイトマンが流行った学年もあり、宇宙猿人ゴリの年もある。
MSとHKは「誤算」に書いたようにそれぞれ別の名門高に合格したが、今でも仲良くしている。高校生になって最初の定期試験が近づき、藁をもすがってきたところか。すがられる藁としても高校生を見てやりたいのは山々なれど、分身の術でも会得しない限り難しい。
「シュウ先生先生に言われないと勉強する気が出ないんだ。」
そんな体にしてしまってすまん。とりあえず、今日は席があるからテスト勉強見てやるよ。
「MSね…」
化学の実験でリンを使ったときのことだそうだ。
「あたしお断りします!リンはさわりたくありません。って言っちゃった。」
あちゃー。そう言えば骨粗鬆症のリスクが高まるから、女の子はリン酸塩を添加したコンビニ弁当はあんまり食べるなよって、面白おかしく言った覚えはあるが
「そりゃ、口に入れたときの話だよ。」
「いいの、MS、化学の先生、大キライだし。」
まだ、一人称はMSかよ。
◆◆◆
HKの方はこっちから電話して呼ぼうと思っていた。
数日前、ふらりとHKの兄Sが現れた。正確に言うと、なおみ先生のデスクに
「忙しそうなのでまた来ます。S」
という書き置きを見つけたのだ。これだけでは誰かわからない。が、末尾に2009年5月○日5時32分14秒とある。
「あのSに違いない。」
なおみ先生がメールすると、すぐに戻って来た。寝起きのダルビッシュみたいな頭で相変わらずだらしない。町で見かけたら、避けて通りたくなるような格好を、なおみ先生にさんざん説諭されてへらへらと言いわけしている。夜の授業が始まってしまっても、タローと取っ組み合いしたり、中学生をひやかしたりして待っている。そして帰り際。
「シュウ先生先生、今度ちょっとHKと話してやってくんない?」
ぼつりと大事な要件を話した。
「何かさ、バレーボールが辛いらしくて、へこんでたんだよ。自殺しちゃうかも。」
全くもって見かけによらないが妹思いの子である。
「ばっかやろ。HKがそんなに弱いわけないだろ!お前こそ、自殺したくなるくらいサッカーやったらどうだよ!」
「うっへえ」
薮蛇に遭ってSはあっという間に逃げていった。
HKはバレーボールのスポーツ推薦で入試に合格していた。Sの話はありそうなことだ。ボクは変わらない笑顔でMSとじゃれているHKを見て、僅かに逡巡したが思い切ってストレートに切り出してみた。弱みを人には見せたがらない子だ。一瞬、目が泳いだが観念して話し出した。スポーツクラスは授業時間以外は練習浸けの毎日らしい。
「ほかの子の話を聞くと、HKと全然違うことしてるの。それで…」
バレーボールは好きだけと、これでいいのかと考え始めると、自由な友だちが羨ましくなってきたのだろう。ボクは彼女に話すことを決めていたわけではない。予め準備した言葉はえてして子どもの心には届かない。
「HK。よくさ、高1高2の頃は、人生でいちばんきらきら楽しく輝いて、大切なときだって大人は言うだろ。」
「うん。」
「あれは嘘だ。」
「え!そうなの?」
横で聞いていたMSまで口を揃えて驚く。
「真っ赤な嘘だね。だって、オレなんか17才のときのオレより、こうしてHKと話してる今のオレの方が100倍も幸せで楽しいもん。」
言いながら100倍はちょっと言い過ぎかなと苦笑する。少なくとも17才のときは腰痛がなかったし、当時は持っていた無限の体力と鋭い脳のキレが今はない。
「だから17才に戻りたいなんて思ったこともない。あんなプアな思考能力しか持たない愚かな自分に戻るなんてまっぴらごめんだね。」
二人ともぽかんと口を開けて聞いている。
「HKもMSも、ホントの楽しみや大切な時間はまだまだこれから先にバカスカやってくる。阿呆な高校生時代にあれやこれや手を出したって役に立たん。今じゃなきゃやれないなんてことも一つもない。かまうこたあないから、全部バレーにくれてやれ!」
「うん、わかった。バレーがんばる。」
あらら。ちょっと大げさに言ったのにあっさり納得してしまった。
「で、阿呆にならないために勉強しろ!…でしょ?」
MSのちゃちゃは絶妙のタイミングでオチを導く。
「当たり前田のクラッカー。だいたい、そういう悩み事にはオレ以外、答えられる人間はそうはいないんだよ。阿呆が集まって相談しても意味なし。これからは真っ直ぐここに質問に来い。」
「うん。そうする。」
発言の責任は取らなければならない。SによればHKには珍しく、ぼぉっとベランダでふさぎこんでいたそうだから、これからもまた落ち込むことがないとはいえないのだ。だから彼女が必要とする限り、ボクは悩みごとに答え続ける。
当然のことながらボクの考えは常に正しいとは言えない。それどころか毎日、訂正や反省、転向と検証の繰り返しだ。だが教え子たちの相談に応えるときの答えは真偽を超えて常に正しい。それはボクが彼らを大好きで、信頼しているからだ。
◆◆◆
一週間後、HKは赤点すれすれで再提出を求められている数Iの答案用紙を持ってやってきた。簡単な問題ばかりなのにペケだらけで、ボクは思わずナゾーを描きたくなったくらいだ。その上、質問しながら十数問を直すのに11時過ぎまでかかっていた。帰り際に、
「先生、こないだ先生に話してもらってから何だかすっきりしちゃって、やる気が出ちゃって、バレーの先生にもほめらちゃって、お前急にどうしたんだって言われちゃって…ありがとう。」
と、少し照れながら言った。
「あしたも試合なんだ。」
「そうか、がんばれよ。」
「うん。」
重そうなバッグを3つも袈裟懸けにして帰っていく。
テストも終わって、あれだけ元気が戻れば、当分彼女が姿を見せることはないだろう。それでいい。見えなくなるまでHKを見送っていたタローが玄関から戻ってきた。なおみ先生が急いで教室をざっと片付けた。
「さ、帰ろう。明日は休みだ。」